報道カメラマンになりたかった…

最終的な目標は、石川文洋長倉洋海沢田教一といった方々に負けないような、報道写真の中の王道、戦場写真が撮りたかった。
男の子があこがれる職業ですな。戦場カメラマン。どうすればなれるのか?近づく為にはどうすればいいのか?方法もわからず、無謀にも卒業旅行で戦場らしきところまでは自費で行ってみた。結局、戦場にも入れず、周辺の難民キャンプで取材らしき物をして、卒業制作として発表したのは、以前にも書いた事がある。
はっきり言って、この卒業制作でまず打ちのめされていた。肩書き以前に、バックアップがないと、プレスカードもおりず、戦場に入ることも許されない。後々考えると、潜入するしか方法はないと言うことを知るのだが、その当時、潜入するっていう方法すら知らなかった。
卒業し、フリーでカメラマンをするって公言したが、それだけで仕事が入る訳でもなく、ただひたすらローソンでアルバイト。そのアルバイトでの立ち読み。就職情報誌で、カメラマン募集の記事を見つけ、無謀にも、「社員になるつもりはないんですが、仕事ください、何でもします。」と面接でいい。なんとか仕事をもらう。
情報誌の遠方取材で、店内、料理、人、何でも撮らなくてはいけなかった。取材も込み。やり方すらわからない。料理の撮り方なんて知らない。蛍光灯が緑色に写る事すら知らなかった。上がりを見て愕然とした。料理にかんしては、傘の枝までばっちり写りこんでいた。
写真をやりたい気持ちはあっても、技術がついてきていなかった。写真が好きでも、写真にかんして、自分は何も知らない。そのとき初めて、自分がやりたい気持ちだけでは何もできない。最低限の知識すら知らない事を確認した。
とりあえず、自分は、報道写真家になりたいが、最低限の知識を身につける必要がある。それには、情報誌の撮影っていう物は、最適ではないだろうか?料理・人・店内・モデル何でも撮れなくてはいけない。報道カメラマンになる為に必要な事はすべてココですべて練習できるのでは?そう考え、専門学校時代、直接授業をもってもらっていたわけでもない先生が、そういう仕事をされていることを、担任から聞きつけ、教えてください!!!と泣きついた。その当時はまだ、最終目標は報道カメラマンだった。
半年以上、取材の度に色んなところに連れていってもらった。わからない事はすべて聞いた。かたくなに写真にかんすること以外のバイトはしないという僕に、学校写真の仕事先を紹介してくれた。その紹介先でも、ブローニーのフィルムで撮影したことのない僕に、いきなり6×9のカメラを渡し、これで集合写真撮ってこい!!!怖かったら、35㎜でおさえっ撮っとき!!!と言って一人で現場に行かされたりした。恵まれていたと思う。
当然、そんなこんなで、自分でも写真を撮り、わからないことは教えてもらい、失敗にかんしては師匠にケツを拭いてもらい。そのたび、あぁ、ここでは、こうして、あそこでは、こうするんか?等々知識はめきめき増えていった。
最初は、当然師匠の物まねから入る。やっていることをまねし、上がりを確認する。
あるときその呪縛から解き放たれた。師匠はこう言っていたが、こうしたらどうなるだろう?フィルム、現像代は出してもらえるのだから、これもやっておこう。そうすることにより、よりいっそう、写真に対する知識が増えていった。おもしろくて仕方がなかった。時にしてそれは、全く関係のない撮影でもいかされた。店内撮影では、こうして補正して撮るのだから、これに人物が絡むと、こういう上がりになるはず。そしたら、これをこうしてああすると、こんな上がりになるのでは?おもしろそうやからやってみよう。そんな遊びすら考えるようになった。
すべてがリンクし、やったことのない撮影でも、なんとか形にすることができるようになった。これを撮るためには、関係がないと思っていたことも、違うことで練習して結果を知っているから、こんな上がりになるはずだ!!!予想できるようになった。
報道写真に未練がないといえば嘘になる。しかし、戦場のむごたらしい写真より、みんなが行きたいアミューズメント施設や、お店を紹介して、行った人が楽しく感じられる、想像をふくらませることができる写真を撮ることは決して居心地の悪い物ではない。学校写真にしてもそう。楽しい遠足のひとときを楽しそうに切り取る。将来その写真をみて、あのときよかったなぁ〜おもしろかったなぁ〜。そんな思い出を作る作業のほうが、戦場写真より写真の神髄にせまっているのでは?そんなことを考えた。