想像を絶するような悲しみが…

もし、自分だったら?
きっとなにもできなかったと思う。そんな出来事がおこった。
気丈にふるまっているその姿に涙した。
自分がその立場なら…
置き換えて考えてみるとその悲しみは、はかりしれず、かける言葉もおもい浮かばず…。
できれば、葬儀にもいきたくはなかった。
ずっと娘の名前を呼び続ける相棒(お嫁さん)の姿を見ると、ただただ涙があふれ、現実逃避する自分で冷静さをたもとうとした。
「お別れをしてください。」と言われたがお棺の中を見に行く事はできなかった。もしかしたらすごく失礼なことにあたるかもしれない。でも、でもできなかったんだよ。あまりにも悲しすぎて…。
今、もし我が息子になにかあったら、俺はなにもできないよ。悪いけど、親として失格かもしれないけど、現実逃避してしまう。
時間が風化させるのかもしれないが、ご両親に一声かける機会があったならば、一緒に思いっきり泣こう。我慢して気丈に振舞っていたんじゃないか?こんな小さな胸かもしれんがかすよ。思いっきり泣こうよ。そう言いたかった。
くしくも、同意見の仲間がいた事をここに記録しておく。

記録のために以前書いて途中で終わった文章

絶対的多数の中で、ごく少数な意見。民主主義では尊重され決して軽視されない事になっているけど、確定した定義の中では、たとえ論理的な意見でもそれは許されない行動。あるいは犯罪として終わってしまう。
わかりやすい例でいうと、学生時代の制服。制服を着ていくのが当たり前。私服で登校した時点で異端児として扱われてしまう。論理的に説明すると、日本の軍国主義に逆らう行動。二度とあんな悲劇を起こしてはいけない、制服はそれに順ずる行為だから制服は着ない。あるいは、金銭的に制服は無駄である。自宅で着ている服ならば金銭的にも無駄がないよって制服を否定する。これも一種論理的意見であろう。
着なさい派の意見は、おそらく世間に出たら着なければいけない職業があるのだから今のうちに態勢をつけときなさいとか、管理しやすいとか、今はまだ世間体がよく見えるとか、伝統だからとか、そんな理由のはずだ。
無駄だよ。制服屋さんは困るかもしれないけど(なんか賄賂でももらってるんか?)、制服とかは本当に無駄やと思うしなくてもいいもののはず。確固たる意見を持ち行動するなら、それを規則だからという理由だけで否定しては絶対にいけない。理由があるなら許さなくてはいけないのだよ。
また、例のごとくアルコールの力を借りてこの文章を書いているのだけれども、どうなんだろ?冷静な時に書くほうがいいんだろうか?世間体的には、酔っ払って言う奴のことなんて信用ならんという事になっていることは否定しないが、酔っ払って書く文章にも一理あると思うんだよね。それでもやっぱりゆるされないことなんだろうか?これがタバコすいながら書きましてん…なら絶対に許されるはずだ。そこの微妙な境目が、最近きになってますねん。
タバコは体に悪い。それは世間一般に知られてる事実。少量のアルコールは人体に害がない。それも知ってる人が多い。マリファナは国が認めてる地域もあるし(タバコより害がないと、ものの本には書いてあるし)たとえ論理的意見で、実害が自分以外になくても、ゆるされないことっていったいなんなんだろ…。


と2008年7月25日に書いて途中でほったらかした文章を記録のため残しておきます。

写真のために何ができるのだろう?
自分は世界レベルでは何もできないごく一部の小さい一員、一般市民、サラリーマンとなんら変わらない存在に過ぎない。
志だけ大きくても、ひとつも実行に移せていない存在、一地方の商業カメラマンに過ぎない存在だ。
自分をアピールする事とはなんなんだろう?やりたい事はなんなのか?
そんな事で日本で通用するのか?技術が伴わないなら、そのほかのもので、他のカメラマンよりアピールできるものがあるのか?収入が伴わないのはそれが不足しているからではないのか?
そんなことを考えながら、新しい表現の仕方を考える。

嫁やチビには迷惑かけているかもしれないが

ものすごく仕事が減って、最近撮影が楽しい。
ひとつの撮影にかける時間が以前より多くなって、いや時間が決められている撮影でも、心の中の余裕と言うか、なんだろ、以前は嫌だと思っていた撮影でも、ものすごく楽しくできるようになってきた。ひとつのことにかけられる時間が多くなってきた事は確かだと思うのだが、実際の撮影時間はそんなに変わらない。変わったのは自分の心の持ちよう。次があるからといってあせらなくいい心の余裕。それが楽しくさせる要因だろう。人の思い出を創るお手伝いができる撮影の方が顕著にそう思う。人によってはランクの低い撮影だと思われるかもしれない。学生のアルバイトでもできる撮影。でもでもね、やっぱり写真の真髄に迫るものはそこだよ。その撮影をしてる人達はその思いを心の一すみにおき(意識しなくとも)仕事しているはずだ。
自分を高めるためにそんな撮影ばかりしていてはいけない事はわかっている。一歩ひいてるから自分はメインの仕事と違うからということを言い訳にしているかもかもしれない。華やかなとことを捨てていないから言えることかもしれない。でもデモね。いいもんだね。人の思い出の手伝いができるこの仕事。間違ってなかったと思うし。嫌がらずやりたいと思う。楽しくやりたい、いい思い出のために……。へたくそでも誠意ある楽しい撮影。たとえどんな現場でも…そうこころがけたい。

天才とき○がいは紙一重なんだな。公的基準でいいこととされることをすれば天才。公的にまちがいとされることをすればきち○い。
考え方を意見する時もそう、世間一般がすぐに予測できることを答えれば一般人。一ひねりしたら頭のいい人。さらにひねると理解されず「なに言ってるのこの人?」ってことで○ちがい。
さらに先のことを考えて、ある程度理解されるようにもって行くことが、天才と呼ばれる人たちがする行動なのだろうか?演技だけではそれはできない。今までの経験の記憶とそれに付随する道筋をさりげなく提示すること。直接言わず匂わす行為。押し付けでなくさりげなく。それを今後は考え行動しなくてはいけないなぁ〜。

すげえよな。ある意味ジャーナリズムのありかたを根底からつくがえしたよな。こんなやり方があったんだと考えさせられるよな。正当法でいくよりも、若い人たちの関心を引き、見せ考えさせることに成功したよい方法だと思う。完全に完敗。まぁ比べるまでもないし、そのレベルまでもいってないけど、すごいよ。
自分の生活レベルを下げずに問題定義するのが今の若い人たちが共感できる考え方なのかもしれない。それは高みの見物であって、日本人の美徳には当てはまらない行動であり考え方なんだろう。自分もその分寄付なりなんなりせえよと思う自分がある。でもそれは国際的ではないし若い世代に共感がえられない、古い考え方なんだろう。
環境や、戦争に関しては関心がないわけではない、でもそれだけ考えて生きていく訳でもない。自分の今の生活も豊かにしたいし、世界的にも豊かになれば、貧困や戦争環境がもっとよくなればそれにこしたことはない。
やりたいことをやって、それを社会定義できる環境を作った、ジャーナリズム以上のものを提唱した彼は勝ち組だし、自分にこんな文章を書かせたこともある意味考えさせたってことだから、それでいいんだよ。考え意識することが、気にかけることがこの世界をよくしていくってことなんだから………。

と最近の日記はある人に考えさせられることばっかで面白くもない日記でした。

ホワイトバンド

批判することは簡単だ。だまされることも経験の上で必要かもしれない。以前だまされたと思うから冷静な眼で見ることができると思う。社会企業家といわれる人が増えてきたそんなことはどうでもいいんだ。それをおかしいと思って批判してみても自分自身が同じ土俵にたってないんだからたわごとにすぎない。批判するならそこまで自分を持っていかなくては、同じ地位に立たなくては非難しても意味がない。むしろやつは行動を起こしメジャーな場所で発表できるところにいて、自分はブログで愚痴を言うにすぎない時点で負け。たわごとに過ぎない。
環境や飢餓をなくしたいなら、ファーストクラスで行く旅費を寄付しろや。ファッションに金かけるな。そんな思想を超えたパワーを集める行動かもしれない。もっと大きな波をおこすための広報活動なのだろう。しかし、しかしだなにかふにおちない。広告活動、ファッションに見えるかっこよさを見せなくては今の若い人たちの共感は得られないのかもしれない。軽い感じを前面に押し出さなくては…。重い古い思想は受け入れられないのであろう。しかし、しかしだなにかしっくりこないのは、自分の立場が負けているだけですまさせることなのだろうか?そんなことを考えた。