記録のために以前書いて途中で終わった文章

絶対的多数の中で、ごく少数な意見。民主主義では尊重され決して軽視されない事になっているけど、確定した定義の中では、たとえ論理的な意見でもそれは許されない行動。あるいは犯罪として終わってしまう。
わかりやすい例でいうと、学生時代の制服。制服を着ていくのが当たり前。私服で登校した時点で異端児として扱われてしまう。論理的に説明すると、日本の軍国主義に逆らう行動。二度とあんな悲劇を起こしてはいけない、制服はそれに順ずる行為だから制服は着ない。あるいは、金銭的に制服は無駄である。自宅で着ている服ならば金銭的にも無駄がないよって制服を否定する。これも一種論理的意見であろう。
着なさい派の意見は、おそらく世間に出たら着なければいけない職業があるのだから今のうちに態勢をつけときなさいとか、管理しやすいとか、今はまだ世間体がよく見えるとか、伝統だからとか、そんな理由のはずだ。
無駄だよ。制服屋さんは困るかもしれないけど(なんか賄賂でももらってるんか?)、制服とかは本当に無駄やと思うしなくてもいいもののはず。確固たる意見を持ち行動するなら、それを規則だからという理由だけで否定しては絶対にいけない。理由があるなら許さなくてはいけないのだよ。
また、例のごとくアルコールの力を借りてこの文章を書いているのだけれども、どうなんだろ?冷静な時に書くほうがいいんだろうか?世間体的には、酔っ払って言う奴のことなんて信用ならんという事になっていることは否定しないが、酔っ払って書く文章にも一理あると思うんだよね。それでもやっぱりゆるされないことなんだろうか?これがタバコすいながら書きましてん…なら絶対に許されるはずだ。そこの微妙な境目が、最近きになってますねん。
タバコは体に悪い。それは世間一般に知られてる事実。少量のアルコールは人体に害がない。それも知ってる人が多い。マリファナは国が認めてる地域もあるし(タバコより害がないと、ものの本には書いてあるし)たとえ論理的意見で、実害が自分以外になくても、ゆるされないことっていったいなんなんだろ…。


と2008年7月25日に書いて途中でほったらかした文章を記録のため残しておきます。