決して、芸術は嫌いじゃないんだ。奇抜と言う観点ではゲージュツは新しいものを作り出し、違う見方を歓喜してきた。ムンクや、岡本太郎ピカソを異質なものと見ない考え方を示唆していたのはゲージツだ。紙一重であるなら、それはある程度今に近いものでないといけないし、あまりにとっぴなものは、現代につりあわない。受け入れられない。
自分が今、うんこさんの写真だけ撮り続けてもそれは世間に受け入れられることはないだろう。いくら理由付けをしたとしても、それは後付の、しかも奇抜に突起した作品に過ぎないからだ。
現代に近いスタンスで演技すれば、ある程度受け入れられる「作品」は作り出すことができるかもしれない。それをやろうとしない自分にも問題はあるかもしれないが、そんなレベルで落ちつきたくない。演技したくない。自分らしさをだしたい。普通でありたい。その中で個性をだしたい。
普通であることはいけないことなのだろうか?みんなの思い出となる写真だけを撮っていてはいけないのだろうか?思い出をつくりだすための手助けをする写真は受け入れられないのか?それは普通であるからゲエジツとはとらえられないかもしれないし、ゲイジツにはかすりもしない写真なのかもしれない。認められないレベルで止まっているなら、表現の仕方を改めなくてはいけないし、気づかれる努力をしなくてはいけない。
でもスタンスは見せたくない。あくまでも軽い人間でいたい。見せたくない。
自分はカッコつけなんだろう。そのカッコつけなところですらアピールしないから。気づかれないんだろうなぁ〜。
とこのブログでアピールして少しでももてようとしてみましたがどうでしょう??????

ハァ〜。

あまりにも硬すぎるのはいけないんだ。自分は深く考えていても現場では決してそれを言ってはいけない。ましてや言い訳にするのはもってのほかだ、このブログ以外では、多くは語らず、あくまでも軽く仕事しているように見せる。結果がすべてだ。そう思って仕事をしている。もしかしたら、多くのカメラマンが考えしていることと違った観点で写真を撮っているかもしれないが、それが個性になれば…自分らしさになればと思っていたが、所詮それは、使用に耐えないレベルのたわごとかもしれない。
世間一般に受け入れないことが革新的な新しい個性かもしれないが、それが受け入れなければ自己満足。自己完結にすぎないし、受け入れらるようにするとブームにしかすぎなく、あたりまえ、一般常識になってしまう。
どこまで自分を見せるか、与えられた条件の中で、個性を殺さず、なんとかできないものか?考えても考えても結論はでない。
現場で、もっと面白く撮れないかなぁ〜。とつぶやくときはそんなことを考えて写真を撮っている時だ。それがはまっていい写真になる時が増えればうれしい。
とこんなことを書いてる時点で、硬すぎるんだけどね〜。

果たして…

機材一新して、某NからCに変えたことは前にも書いたと思いますが、某Nからプロ登録の更新について何も音さだがないのはさておき、(その対応もどうかと思うし、今N社のデジはノイズも少なく、かなりいいものだと言われても所詮後だしジャンケンでいいものがでてくるのは当然だと思っている。)レンズセレクトが以前と同じセレクトとなってきたことは否定しない。やっぱ単レンズはいいね。
以上。

決して負けてるとは思わない。

決して負けてるとは思わないし、表現の仕方が上手だとも思わないのだが、自分にはその表現の場さえあたえられていないのは、負けているのかもしれない。自分のアピールの仕方が上手ではないのであろう……。そう思うようになった。
認められなくとも、自分の表現をある一定のラインで確立し、資産を残し、継続は力とまではいわないが、残していかなければ、えらそうなことは言えない。認められない実績であっても、なにか形あるものを残さなければ、口ばっかりの評論家とかわりない。
自分はカメラマンだ。雑誌や、卒業アルバムでは形あるものが残っていっている。でもそれは、オーダーされたものであって、自分自身の表現の方法として残ったものではない。確かにいろんなことを考え写真を撮り、それはそれで、ある一定の表現としては間違いのないものであろう。
しかし、自分の表したいものはそれではなく、編集さんの表したいものであろう。そこに自分の表現が加味されているにすぎない。またそうでなくては仕事がなりたたない。
それは仕事として当然だ。
それは、それで突き詰めていき、それとは別に、自分自身の中で、なにか継続でき、表現として新しいものを考え写真として残していかなくてはいけない。それがカメラマンだ。
そんなこんなで………。

新年明けましておめでとうございます。

ということで本年もよろしくお願い申し上げます。
そんなこんなで、アル中まではいきませんがお酒が大好きでかなり飲んでる状態の文章です。ごさっしください。
あくまで、というかカメラマンです。写真でがんばってきました。でも所詮自分は写真の学校も出てませんし、基本も知りません。現場で覚えてきました…。駆け出しのころは、色補正の意味というかそんなことをせないかんことすら知りませんでした。知らんのにカメラマンといきがって仕事をし、出入り禁止とまではいきませんが三年以上仕事をもらえなかった編集部もあります。(社長が昔いてた編集部です。きっと怒られたのも社長だったと思うのですが…。若年性痴呆症なので覚えていません)なんかしつこい文章だな。かなり酔っ払ってるな。
かたくなに、写真だけで勝負することにこだわっていました。自分は人よりも写真を知らない。知らないからこそ、現場での雰囲気を大切にし、ライテング云々、露出云々、を振り払い、ノリで、楽しい。あるいはこの写真に技術では勝てないんだから、なんとかその他の方法で真剣さを出せないのか?そんなことを考えて写真を撮ってきたようにおもいます。
関西にはすばらしい編集さんがいます。いやライターさんにもすばらしい人がいるんです。絶対にその自分の考えをあからさまにしないし、(少し御幣がある書き方ですが)恩着せがましいことは言わないのですが、そんな人からもらう仕事は知らず知らずのうちに力が入るものです。最後に「ありがとうこれでOKです」と言われることを期待して………。
決して忘れているわけではないのですが、現場できちんとデレクションされない場合もあるいのです。往々にしてそれは、若い駆け出しのライターさんではなく気心知れたライターさんであることが多いのですが…。ある意味なーなーになってしまいすぎて、いわずもなが、という状態で撮ってしまう写真。そんなときにかぎって、大きな失敗をしてしまうわけです。決して手を抜いてるわけでなく、あくまで編集さんの意図を酌みいれていない写真。いや決して本にしたら違和感があるわけではないレベルの写真のはずですが、それ以上のことを汲みいれることができなかった自分に腹が立つ写真。そんな上がりもあるんです。
さらに転の文章が続きますが、編集の意図はわかるがカメラマンとしてそれはできないと言う写真もあります。そんなことは簡単やし、撮れといわれれば撮る。でも本来ならそれをするなら、根本から変えないといけないから先に撮った写真でおしきることはできんのか?俺てきには先にとった構図が最高だと思うのだが…。と言っても分ってもらえない時がある。そりゃ、あんたのいう構図をそのまま撮ることは簡単やし、デジタルになった昨今、金もかからん。でも、でもね、それをやっちゃうと、カメラマンじゃなくなってしまうよ。ある程度写真の理屈を知っていれば撮れるし、それを撮ってしまうと、素人と一緒になってしまう、カメラマンのプライドとしてそれはできない。じゃあ俺以外の人に頼んでくれ。たとえ仕事が減ろうとも…。そう思うこともあるわけです。
だから、編集さんや、ライターさんに俺のこの考えを押し付ける気もないし、それはそれでいいと思う。たとえ自分の演技の部分がへたくそで、うまくアピールできなくとも、それで仕事が減ろうとも、自分がもっている一定のラインを逸脱しない、自分のクオリティを下げない努力、それを心がけて今年もがんばっていこうと思う。新年の自分への戒めとしてこの文章を残す。
いや〜支離滅裂。かなり酔っ払ってますね〜。不況なのでカメラマンだけでなく、今年は文章も仕事にできんか?なんて思ったけどこれじゃやっぱりだめだね〜。

と言うことで、そんなこんなで、今年もよろしくおねがいします〜。新年三が日だけ昼間っから飲みまくってた、たつじぃでした。

サイケな年賀状

色々な理由で今年の年賀状は二種類作成いたしました。
親バカかサイケかどっちがいいかコメント欄にて受け付けますので、よろしくお願いいたします。まことに勝手ながら、26日正午をもちまして受付終了とさせていただきます。